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2014年05月01日(木) 

現在の世の中に飽き足らず、次の世界に移住しようと考えるのは、楽しいことである。旅行するのではなくて、この世の中そのものを変えるのである。だから、“We can change!”(我々は、変革できる)と言う掛け声は、希望を持たせる発言である。
一体、どのような世の中に変えるのか。その答えは人・人により違う。その内容を思い思いに語ることは楽しいことであろうが、日本人にとっては非常に難しいことである。
各種の世界の内容を論ずることを世界観 (world view) と言う。日本人の世界は、唯一であるため、来るべき次の世を語ることは難しい。
インド人が、前世・現世・来世の三世界を語ることは日本人も知っている。だが、どうしたら三世界を語ることができるかを考える人は少ない。インド人がどのようにして現世のみならず、前世や来世の内容を限りなく脳裏に展開できるのかを考えてみたこともない。
それは、彼らの言語に時制というもがあるかである。印欧語には時制というもがある。欧米人は、‘われわれはどこからきたか、何者であるか、どこに行くのか’の哲学的命題が大切だというが、これらの命題は時制からきている。三世界の内容は過去時制・現在時制・未来時制の三時制に対応している。時制がなければ、文章の内容は過去・現在・未来の三世界に分けることができず、現在の内容だけが信じられることになる。

インド人の苦悩は、三世界を次々といつまでも渡り歩くことにある。瞑想により得られる非現実の内容は煩悩なのであろうか。
欧米人は、三世界を渡り歩かない。次の世界は天国か地獄に行き着くのである。罪を犯すと天国に行けない。これが彼らの悩みである。
それぞれの国の宗教は、人々を魂の苦しみから救う目的を持って考えられてきた。インド人には涅槃(1)を、欧米人には贖罪(2)を用意した。

時制がなければ無心(3)であり、無心であれば精神的な苦しみはない。赤子のようなものか。無哲学・能天気でいれば、次の世界への移転もない。環境の変化がなければ天下泰平である。無心は特亜三国の人々の理想である。
無心は無神。かくして、北東アジアは、不安定要因を抱える現在の世の中に飽き足らず、次の世界に移住しようと考えるのは、楽しいことである。旅行するのではなくて、この世の中そのものを変えるのである。だから、“We can change!”(我々は、変革できる)と言う掛け声は、希望を持たせる発言である。
一体、どのような世の中に変えるのか。その答えは人・人により違う。その内容を思い思いに語ることは楽しいことであろうが、日本人にとっては非常に難しいことである。
各種の世界の内容を論ずることを世界観 (world view) と言う。日本人の世界は、唯一であるため、来るべき次の世を語ることは難しい。
インド人が、前世・現世・来世の三世界を語ることは日本人も知っている。だが、どうしたら三世界を語ることができるかを考える人は少ない。インド人がどのようにして現世のみならず、前世や来世の内容を限りなく脳裏に展開できるのかを考えてみたこともない。
それは、彼らの言語に時制というもがあるかである。印欧語には時制というもがある。欧米人は、‘われわれはどこからきたか、何者であるか、どこに行くのか’の哲学的命題が大切だというが、これらの命題は時制からきている。三世界の内容は過去時制・現在時制・未来時制の三時制に対応している。時制がなければ、文章の内容は過去・現在・未来の三世界に分けることができず、現在の内容だけが信じられることになる。

インド人の苦悩は、三世界を次々といつまでも渡り歩くことにある。瞑想により得られる非現実の内容は煩悩なのであろうか。
欧米人は、三世界を渡り歩かない。次の世界は天国か地獄に行き着くのである。罪を犯すと天国に行けない。これが彼らの悩みである。
それぞれの国の宗教は、人々を魂の苦しみから救う目的を持って考えられてきた。インド人には涅槃(1)を、欧米人には贖罪(2)を用意した。

時制がなければ無心(3)であり、無心であれば精神的な苦しみはない。赤子のようなものか。無哲学・能天気でいれば、次の世界への移転もない。環境の変化がなければ天下泰平である。無心は特亜三国の人々の理想である。

日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語には時制がない。だから、日本人は優柔不断・意志薄弱に見える。意思があれば、罪もある。意思がなければ、罪もない。人は死んでも、死刑執行人は殺人罪に問われない。彼らは頼まれた仕事をしているばかりである。日本人のほとんどが頼まれ仕事をしているのである。だから、この国がひっくり返ったときにも責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。

特亜三国の言語には時制がない。特亜三国人には意思がない。意思がなければ加害者もない。加害者意識(罪の意識)もない。
あるのは被害者意識だけである。罪の意識のない人は心からの謝罪は難しい。被害者意識のある人は恨みを募らせるばかりである。
罪の意識のある人は、他人の罪を糾弾することがむずかしい。自分にも思い当たるふしがあるからである。
罪の意識のない人は、他人の罪を糾弾することに容赦ない。自分もすねに傷を持つ身であるとは考えてみたこともないからである。こうした片手落ちの判断に基ずく運動には国際的な賛同者が得られない。民族のご都合主義は、国際社会における限界をもっている。

特亜三国には贖罪のための宗教はない。不満・恨みは社会に積もるばかりである。為政者は、その恨みを国外に発散させようとしている。‘鬼は外’と言うところか。このような方策は、北東アジアの不安定要因となっている。
怨みは忘れるしかない。事実を忘れるだけでは、歴史から教訓を学ぶことはできない。
小異をすてて大同につく。無哲学・能天気の民には大同・哲学はない。大同がなければ小異は捨てる理由もない。これを民族性と考えて、座して死を待つか。それとも、新しい方向に打って出るか。ここが、思案のしどころである。
我々はどこに行くか。この世の ‘あるべき姿’ はグローバル(global) ・ユニバーサル (universal) などと:形容されている。その内容を話し合うことが建設的なことである。しかし、我々はどこにも行かない。これは日本人の昔から望むところだ。天下太平の世の中だ。年中行事を繰り返す。しかし、夢と希望のない世の中の継続でもある。哲学は、無哲学・能天気の人々の眠りを覚ます上喜撰となるか。それとも、覚めることなく大国の後から付いてゆく事大主義を続けるか。

特亜三国人には罪がないので贖罪はない。無理にさせれば自虐史観となる。罪を認めて謝罪しろと言えば、「何を言うか。お前こそ、、、、、」と混乱の繰り返しになる。どこに行くのでもない不毛の議論が始まる。建設的でない態度で、英米人は失望している。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/


解説
(1)涅槃 (ねはん) 釈尊がすべての煩悩をなくして、高い悟りの境地に達して死んだこと。
(2)贖罪 (しょくざい) 神への罪から救うために キリストが、全人類に代わって十字架にかかって死んだこと。
(3)無心 (むしん) 何の考えもないこと。無邪気なこと。


閲覧数1,802 カテゴリ日記 コメント2 投稿日時2014/05/01 11:28
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