みつちゃんさん
ありがとうございます。
やっぱり、男は強くないとダメですね。
私は気持ち的には硬派のつもりでしたが見た目は草食系でした。
モテないわけでした。
今になって見た目だけでも色黒でいようと日焼けに努力しています。
熱中症になれば笑われ迷惑をかけますから気をつけます。
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第二章 気づかせること 長嶋監督、王監督の気遣い 2004年のアテネ五輪では長嶋監督、06年のWBCでは王監督、そして08年の北京五輪では星野監督の下で代表に選ばれた。長嶋監督、王監督はそこにいてもらえるだけで選手の身が引き締まる存在だった。 長嶋監督は、福岡での代表合宿の時、最初の全体ミーティングで五輪の歴史、その発祥の地であるアテネがいかに特別の場所か。そして「世界が注目するスポーツの祭典のなかで野球は大変重要な役割が与えられている。だからこそ、このアジア予選には絶対勝ち抜かなければならない」と話された。2,30分続き、長嶋監督の風格とともにとても重く感じられたことが記憶に残っている。 私の父親は大の巨人フアンで、長嶋フアンだった。長嶋監督が選手だったころ、空振り三振をして、ヘルメットを飛ばしている有名な写真があるのはみなさんご存じだとは思うが、あのポスターが家に貼ってあった。長嶋監督の1974年現役引退時の特別番組をビデオに録画して何度も見ていた父親の姿が脳裏に焼き付いている。 今だから話せるが、前年に長嶋さんが監督として復帰された94年のドラフト前、巨人にという話もあった。父親は当然のごとく巨人入りを勧めてきた。そんな父親に影響されて育った私にとって、長嶋監督が脳梗塞で倒れたという知らせほどショッキングなことはなかった。 アテネに出発する前日の夜のことだった。長嶋一茂さんから「断念します」と正式に言われた。選手一人ひとりには長嶋監督のメッセージが寄せられた。私が渡されたメモ書きには「キャプテンシーを発揮してチームを引っ張っていってください」とあった。それで私たちは「一番いいメダルをみせられるように頑張ります」という言葉を一茂さんに託したのだった。 アテネ五輪で銅メダルに終わり、成田空港に着いた私たちにサプライズが待っていた。長嶋監督が成田のホテルで待たれていたのだった。私の気持ちは会える喜びと申し訳なさの半々だった。 ホテルの一室でお会いした長嶋監督は、顔からは血の気が失せ、容体も芳しくなさそうだった。それまで元気な長嶋監督を間近で見てきただけに、少なからずショックだった。それでも、高橋由伸と私とで長嶋さんの目の前にメダルを差し出した。私は「すみません」と言った。すると私の持っていたメダルを手に取って「意外と重いね」と囁かれた。 その時、長嶋監督の口元がかすかに緩んだように見えた。あの笑顔は今でも忘れられない。重篤な病状にもかかわらず、選手を出迎えるために成田まで来られたその気遣いに、選手の誰もが感銘を受けていた。 06年時のWBCではキャプテン制をとらなかったので、直接的な王監督とのコミュニケーションは多くはなかった。王監督はものすごく気を遣われる方である。代表では30人選手がいても、試合に出場できるのは20人程度である。出場できない選手全員に声をかけ、きちんとフォローされた姿が印象に残っている。 長嶋監督、王監督が大スターであり、長くプロ野球フアンに愛される理由は、記録を超えたその気配り、人格であるということがよく分かった大会でもあった。 × × 誤字脱字写し間違いあります。 |