みつちゃんさん ありがとうございます。
いい時代でした。今は便利な時代になりましたがその分、世知辛いですね。
2万でも3万でもその場で見れば感動もそれなりに大きくテレビでは味わえない雰囲気は確かでしょうがテレビもまえとは雲泥の差、現場以上に伝えてくれると思います。
被災地の中には開催決定のお祭り騒ぎやっきりする方多いと思います。
『新幹線の元運転士』【運んだ観戦客の笑顔】 東京・国立競技場を目指す聖火が、岐阜県に入った1964(昭和39)年10月1日の午後8時。東京駅ホーム出発を待つ下り最終列車「ひかり29号」の運転席では、当時32歳の川崎由蔵さん(81)=静岡市葵区=ゆっくり呼吸を整えていた。 東海道新幹線はこの日早朝に一番列車が走ったばかり。ホームの人だかりは夜になっても消えなかった。開業当日に運転する緊張で、ハンドルを握る手にじっとり汗がにじむ。「時刻よし…発車」。声を出すと平常心に戻った。 世界最速の最高時速210キロで走る「夢の超特急」は、国を挙げた一大プロジェクトだった。東京―新大阪間の515キロが結ばれたのは、着工からわずか5年後。東京五輪で世界に技術力を示そうと突貫工事が行われ、五輪開幕の9日前に開業にこぎつけた。 川崎さんに五輪そのものの思い出はほとんどない。運転席の硬い椅子に座り、五輪を観戦する客を乗せてひたすら走った。 いつものように満席だったある日。停車中、後ろのガラス窓に気配を感じて振り返ると、小学生の男の子がへばりついていた。扉を開け「入りたいの?」と尋ねると、小さくうなずいた。遠慮がちに運転席に入った男の子はレバーやスイッチに額がくっつくほど近寄り、「すどい、すどい」とはしゃいだ。 「上にばれたら叱られたんだろうけど、今みたいにうるさくなかったからね」。その後も何度か子どもを招き入れ「五輪より印象に残った」と手紙をもらったこともあった。客の笑顔を運ぶことで五輪に参加したと思っている。 陸軍パイロットだった叔父にあこがれ、乗り物を動かす仕事を志した。地元の国鉄静岡鉄道管理局に入り、蒸気機関車のかまたきから始めた。在来線の運転士をしていた62年、新幹線の運転士を募集すると聞き、迷わず手を挙げた。 時速80キロの世界から、200キロ超の風景は想像できない。でも運転士なら最速の世界に挑戦したいと夢見た。「静岡の30人で合格したのは自分ともう一人だけだった。 新幹線は半世紀で、最高時速が320キロに上がった。2時間半で結んでいた東京―名古屋間は1時間近く短縮。2027年にリニア中央新幹線が開通すれば、たった40分だ。あまりの速さに「付いていけないな」と逆に寂しさも感じる。 あの時の子どもたちはサラリーマンなら定年を迎えるころだ。自分が新幹線の運転士になったように、夢をつかんだだろうか。56年ぶりの東京五輪が現実となった今、ふと思う。 退職後は自営の仕事をしながら7キロ歩くのが日課だ。7年後に自分の目で五輪を見る新しい夢もできた。「楽しみだね。健康に気をつけなきゃ」。今度は客室のシートに腰を沈め、まどろみながら東京に行こう。 × × 2020年夏季五輪の東京開催が決まり、56年ぶりに東京の聖火台に火がともる。五輪の舞台は選ばれたアスリートだけのものではない。1964年の初の東京大会以来、聖火をリレーでつなぐように、中部地方ゆかりの人たちもそれぞれ五輪への思いをつないできた。 ゆっくり写しましたが抜けたりちがったりです。指の運動に目を通して戴きありがとうございました。あすもよろしくおねがいします。 |