みつちゃんさん
ありがとうございます。
私は読んでも写してもぼけーっとしているだけですが、みつちゃんさんは鋭く感じとっていますねまだまだ伸びしろいっぱいの様子です、私も・…。
【応援を励みに諦めず挑戦】 宮崎日日新聞 2012年11月4日付 朝刊 日南市・油津小(矢野旨宜校長)の熊給祐子さん(40)は3年2組児童27人の担任。20代は採用試験に落ち続け、30代での再挑戦を経て教諭となり3年目だ。「たくさんの出会いのおかげで今がある。児童たちとの日々は幸せ」と感謝の心を胸に毎日を過ごしている。 幼いころは人見知りが激しく、いつも母親の後ろに隠れるような子だったが、小学校時代に関わった教諭らが人前にどんどん立たせた。「最初は泣いてばかり。本当に嫌だった」と振り返る。ところが、高学年になるころには活発に発表できる元気な子に。「子どもながらに自分が変わったのが分かった」 影響力のある「教諭」という仕事に強い憧れを抱き、中学、高校と思いは変わらず順調に大学を卒業。しかし、「大学が県外だったので宮崎での採用傾向をうまくつかめず」、不合格だった。 講師として地元日南に戻った。講師は基本的に産休などの欠員補充で採用され、単年で勤務地が変わるケースが多い。経験を積みながら、年に一度の試験を受け続けたがうまくいかなかった。 その間、27歳で結婚、2年後に第1子を出産。受験資格は30歳までだったため、一度は教諭になる夢を諦めた。教諭の夫から「講師でも子どもと関われる。無理しないで」と励まされた。それでも、「講師では長い期間、子供の成長を見届けられない。教諭ならできるのに」と落ち込んだという。 そんな熊給さんの転機になったのは、講師として現場で働いていた37歳のころ。勤務先の校長から、採用試験の年齢制限が40歳に引き上げになったと知らされた。意を決し受験。その年は不合格だったが、夫や両親、友人、教え子らからたくさんの励ましがあった。「周りも応援してくれる。やっぱり諦められない」。平日は授業、家事、子育てに奮闘。午後9時からの約2時間を試験勉強に充てた。休日は子どもを夫に任せ勉強に集中。苦手の水泳もスポーツジムに通って克服し、翌年には合格を勝ち取った。 「やっと教諭として子どもたちを見届けられる」と喜びであふれた。 38歳で教諭になった意味を考える。もう一度頑張るきっかけをくれた校長は、小学校時代の恩師だった。そんな縁があるからこそ、今があるんだ――。「自分の経験などを話し、夢はかなうということを繰り返し伝えていきたい。そしていつか、教え子と一緒に働くのが夢」と、子どもたちを優しい目で見つめている。 (文化部・草野航) 〈読者投稿〉 20代は採用試験に落ち続け、30代での再挑戦を経て、ようやく38歳で小学校教諭の資格試験に合格した。今、地元の小学校教諭として活躍している熊給祐子さん。彼女の体験と20代時の自分との体験が重なり感動した。 高校卒業と同時に九州の片田舎から上京して、東京の大学は出たものの職はなし、という昭和30年代。幾つかの採用試験を受けたが全部落ちて失望していた矢先、ある会社の社長から「諦めず頑張れ。必ずチャンスは来るから」と、励まされた。26歳の時だった。 「理科の編集員若干名募集」のある新聞広告が目に留まり、受験資格が26歳までの大手出版社の採用試験を受け、18人中私1人が採用された。物理学科(東京理科大)を出ていた自分にとって幸運だったのは、出題された問題が数学と物理を主にしたものが多かったことだ。運にも恵まれたことが「HAPPY」な人生を送れてこれた原点だと感謝している。 山本正敏さん 79歳 宮崎県 × × 障害者の体験談ばかりでは嫌だなぁと思っていたところ三人目に健常者が出てきてやれやれです。 写し間違い誤字脱字あります。右手の指2・3本で探しながら押さえてます。 |