東京電力福島第一原発事故の被災者らでつくる「『生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!』福島原発訴訟原告団」が、国と東京電力に慰謝料などを求めた福島地裁の裁判で、金沢秀樹裁判長が3月17日、被害実態を把握するために帰還困難区域を含む双葉地方で検証を実施する。下見のために一時帰宅した原告らに同行し、被災から間もなく5年を迎える“10キロ圏内”を歩いた。 原発から約10キロの浪江町で畜産業を営んできた佐藤貞利さん(68)は、荒れ果てた牛舎、自宅を前にため息をついて話した。「今でも牛が夢に出てくるんだ。食わせてくれよ、水を飲ませてくれよ、とすり寄ってくる。何もできないことが情けなくて、泣きながら目を覚ますよ」 種牛を育てるために約230頭を飼っていた。 2011年3月12日。午後3時半ごろ、南の空に「ドーン」という音とともに雲が上がった。「原発がぶん抜けたんだ」。その日から避難所を転々とする生活が始まった。4月下旬、知人から「牛が生きている」と連絡があった。 体が震えた。だが20キロ圏内には入れない。一時帰宅がかなったのは9月だった。牛舎では、やせ細った牛たちが折り重なって死んでいた。エサを求めて、ひもを歯にからませた牛もいた。水を求めて水路に入り込み、息絶えた牛もいた。 五人の子供を育てた家にはイノシシが入り込んでいた。今は福島市内の四畳半二間の仮設住宅で妻と暮らす。子どもたちとは離れ離れになった。たまに三男が様子を見に来ると、狭い部屋に折り重なって眠る。 「あれほど原発は安全だといったでねえか。うそこいて、人をだまして、ばかにするなや。原告になって、国から圧力を受けるかもしれないが、かまわねえ。牛たちは腹を減らして死んだ。その分まで悔しさをはらす。おれは負けねえ」 裁判官は、この声をどう聞くか。 (福島特別支局・坂本充孝) × ×写しました・・・・・・・
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